米津玄師「Flamingo」無限ループと村上春樹 前編
こんにちは関山です。
久しぶりにめんどくさく長い文章を前編・後編に分けて書きたいと思います。
興味のない方はそっ閉じ。
最近youtubeで米津玄師の「Flamingo」を無限ループしています。
SONYのCMで耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか?
「米津玄師」という特徴ある名前は知っていました。
何度かyoutubeで彼の楽曲を聞いてみたが良さが理解できなくて興味もなかった。
なかったのですが。
この曲を聞いて凄い才能だと思った。
今回は米津氏とこの曲がなぜ素晴らしいと思うかについて書きます。
まずこの曲の歌詞。意味がさっぱりわからない。
意味がわからないだけでなく、サビ以外の歌詞はすべて母音が「 i 」の韻を踏んでいる韻文構成。
宵闇に( i )
爪弾き( i )
悲しみに( i )
雨曝し( i )
花曇り( i )
MVも意味がわからない。
地下駐車場のようなところでコンテンポラリーダンスを踊る米津氏がメインカットで、なぜか中華食堂のような場所があって。
女が駐車スペースの縁で怪しげに横たわっていたり。
車が衝突したり。
閉じた空間で起こる不可解なあれやこれやが解釈を拒み謎を呼ぶ構成。
想像力を開く作りになっていて、受け手によってどうとでも捉えることができる。
言うなれば、脱構築。解釈の拒否・解放。
2000年以降、商業音楽をあまり聞かなくなった。関心を持てなかった。
会いたくて震えたり、翼を広げたり、フライングゲットするような楽曲に共感できなかった。
共感しすぎ。気持ちを代弁しすぎ。
でもこの曲は久しぶりに「あぁ、いいな」と思う。
《再生し終えた後に、時折Mr childrenが流れる。以前は少し背伸びした桜井和寿の歌詞が苛立ちを代弁して「そうそう。そうなんだよ」と共感を得たが、この曲の後だと「代弁しすぎだ」と感じる。余談。》
この楽曲の不可解さもさることながら、特筆すべきは、米津氏が「商業的にも成功している」という事実。
「Lemon」「ピースサイン」など。youtubeの再生数が億を超えてとんでもないことになっている。
今朝ワイドショーで「Lemon」は今年日本のyoutubeで最も再生された楽曲だ。と報道されていた。たぶん。
【Flamingo】
これだけ「捉えどころのない」「関わらない」世界観を創れる人が商業的に成功しているという状況に衝撃を受けた。同時に疑問というか、率直になんだろう?って思う。
いや、メロディーラインが秀逸で、それ自体が単純にかっこいいというのはそうなのだけれど。
一般ウケしそうな領域を手がけつつも「Flamingo」のような曲も書ける。
様々なジャンルを横断しつつセンス良く曲を作れる。
考えたいのは、商業と芸術、またはそれらを取り巻く評価の多面体を自由に泳げる彼の才能について。
自分自身商売をやるうえで、または美容師という職業を10年以上やってきて、なにが「イケてるか」「イケてないか」の呪縛を抱えて仕事せざるをえなかった。
我々の仕事は当たり前にマーケットと隣接しているわけで。
「イケてる」と思うことをやっても世の中では評価されないことの方が多い。
いや、それってなんなんだろうな。クソだな。という素朴な感情。
音楽もそう。文学もそう。マーケットと隣接している。
売れることを求められると同時に、芸術性(らしきもの)を求められたりするわけで。
だから。というか、必要然としてクリエイションと商業が隣接しているのであれば、それを横断するようなカタチで業界にインパクトを与えてやろう、という野心や戦略が元々頭の中にはあった。
創業から今まで、解釈を拒むようなグラフィックデザインをHPに採用したり。
クリエイションや写真のテイストは共感されるかどうか関係なく、やりたいようにやったり。
一方で、マーケティングを推してきた。ネット広告をガンガン打って、装飾して、文字で埋めて。個人的にダサいと思うことも徹底的にやった。
それはそれで戦略であって、商業と芸術性のなんたるかを巡るめんどくさく絡まった呪縛を解放し、ジャンルを横断する方法の一つだっただけ。
消費者のニーズに(さしあたり)全力で応えつつ、市場を取り急ぎ掌握して。
それからからやりたいことに立ち返る。
評価の多面体を戦略的に泳ぐクレバーさへの憧れ。
米津玄師には商業やその他、取り巻く環境を意図的にジャンプできる横断的才能を感じるし、歌詞・楽曲・MVにおいてストラテジックな芸術性を感じる。
だから凄い才能だな。と感じる。
のかもしれない。(全く的外れなのかもしれないけど)
さて、もう一つの表題「村上春樹」ですが。長くなるので後編で。
関山