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【1.】


昔から何かに没頭していないと気が済まない性格である。


「何か」の対象はその時々、いろんなものに置き換わる。


学生の頃はバンドであったり、恋愛であったり。大人になってからは仕事であったり、読書であったり。筋トレやゲームの時もあった。


一つの対象に没頭しているときは、延々とそのことばかり考えている。1日中仕事のことを考えている時もあれば、ずっとゲームだけのこともある。


もちろん、仕事がうまくいかない時や、本を読んでも理解できず、頭の悪さにガッカリすることもある。ゲームをやり続けて時間を無駄にし、自己嫌悪に陥ったりもする。


しかし、やってる最中はいろんなことを忘れてひたすらそれだけに集中する。


そして、一定の到達点に達すると、ある時期を境にパッと興味を失って、次の没頭できる何かを探し始める。



なぜそのようなことを繰り返すのか。理由を考えた時に、ふと気づいたことがある。


「没頭できる対象があることは、生きることの難しさに比べて、あまりにも容易だから」


ある時この事実に気づき、とても腑に落ちた。


勉強することも、仕事に熱中することも、状況次第でまったく苦にならないのは、単に生きることに比べてあまりにも簡単なのだ。


抑揚のない人生を送ることに比べたら、リスクを背負って新しく何かをスタートすることや、社会から多少逸脱するような行為に向かうこともさほど怖くはない。


だから、いつものめり込める何かを探しているし、常に情熱を燃やせそうな何かを始めている。



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【2.】


ここ最近は、コロナでいろんなことに制約を受けて、美容室という事業の難しさを思い知らされることになった。


感染拡大すると休業しなくてはならなくなり、売上が立たないとキャッシュを失う怖さを感じる。


コロナに対する感覚も人それぞれで、極端に恐れる人もいれば、さほどの人もいる。


それらすべてに完璧な答えは提示不可能である。にも関わらず、答えを提示する必要に迫られる。


ここ1年はスタッフの離職が続き、精神的にも疲れた。


もちろん改善しようと試みるが、そもそもの地合いが荒れているので簡単には上手くはいかない。


こういった時、優れたマネジメントはどう解決するだろうか。


精神鼓舞するのか?実直に改善策を練るのか?売上や結果を追い求めるのか?



クリエイティビティや、抽象的な命題も時間と共にますます機能しにくくなってきている感覚がある。というか意味のないものとして黙殺されている。マーケ的に言えば「刺さらなく」なった。


世の中はロジカル、マーケ、働き方改革、が幅を効かせ、結果を出すための頭の使い所が変わり、クリエイティビティも感覚的なものからロジックをベースとしたものに置き換わった。


変わったこと、変わらないこと。容認できるもの、そうでないもの。仮にノートの真ん中に縦線を引いて、現時点で重要と思われるファクトを右と左に書き出したら、以前と比べある一方の属性だけが極端にすり減っているだろう。


そこにあるのはただの乾いた情報であって、筋トレの後に流し込むプロテインのように無味乾燥である。



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【3.】


ここまで書き連ねてきて、大変時代と逆行した書き方をしてしまった反省と後悔がある。


世の流れに則すなら、もっと懇切丁寧にわかりやすく響きやすい文で書くのがセオリーだ。


この散らかした文体は、未だ考えのまとまらない自分が時代に対して感じている率直なアンチテーゼである。



いつも何か新しく始めるときは、まとまらない思考を文章なり言葉なりにして一旦吐き出してみることにしている。


いま世の中には誰かに「伝えるため」の文章や写真が多すぎる。


それが逆説的に創造性を奪っているという個人的な危惧があるから、誰かに伝わる必要もない文章を書いている。


では、今後どうすべきかというと、以前ブログで書いたような内容である。


とてもアナログで、捉えにくいこと。


この2年を振り返って、改めて我々の強みは何かを考えている。おそらく言語化、論理化できない抽象的な領域にあるはずだ。


掴みにくい多様性の坩堝に手を突っ込んで探ってみる。答えのないところをこねくり回してみる。


世の流れを引き受けつつ、本来持っていた強みを再確認するために。



何かを始めるために止めて、何かを止めるために始める。


そこに没頭できる何かを見出せると願って。



関山